大原孫三郎という人物(シバセ工業社長による朝礼)
倉敷に大原孫三郎という人物がいました。明治時代に倉敷紡績の社長になってから、工場の労働環境改善や 岡山、倉敷のインフラ作りに貢献して、日本の産業の発展に尽力した人物です。私は、10年前に大腸癌で倉敷中央病院に入院した時にそのことを知りました。
現在の倉敷中央病院は、倉敷紡績の労働者用の病院として作ったものが、広く一般市民に開放されたものです。病院のコンセプトは、「東洋一の理想的な病院、治療第一の病院、そして病院くさくない明るい病院」であり、病院の方針を①研究のみを主眼としない ②慈善救済に偏しない ③看護体制を充実させる ④平等無差別の取扱 ⑤院内従業員に対する心付けや謝礼、贈り物などの一切厳禁 としてその後日本の他の病院に大きな影響を与えたそうです。
大原孫三郎は、倉敷紡績工場内で必要とする電力を供給する発電所を社内に作りましたが、県内の産業発展のためには電力の供給が懸案事項と考え、乱立していた県内の電力会社を併合して拡大しました。こうして出来た中国合同電気は、岡山県だけでなく鳥取県にも電力を供給しましたが、その後広島県の山陽中央水力電気と合併して、また他の電力会社との合同によって今の中国電力が誕生しました。
新聞社では、岡山県内で山陽新報と中国民報が経営難に陥っていたことから合併話が持ち上がって、大原孫三郎が資金を提供して山陽新聞が出来上がったのですが、孫三郎の新聞観は「金は出すが口は出さず」であったそうです。新聞社の社員に対して「県下の産業振興を勧奨すること、都市と農村に起こりきたれる社会問題を究明すること、社会教育を指導すること」と自分の信念を語っています。
銀行では、第一合同銀行と山陽銀行が合併して1930年に開業した中国銀行の頭取に就任し、「対物信用さえあれば良しとするのでなく、事業の性質や人物を考慮して金融上の利便を供するという度量が銀行には重用である」と、孫三郎は語っています。
大原美術館については、友人の児島虎次郎にヨーロッパで集めさせた絵画を展示するために作った日本最初の西洋美術館が大原美術館です。孫三郎が大原美術館を設立した最大の理由は、児島虎次郎との友情でしたが、もうひとつ社会への富の還元、社会貢献が挙げられます。また戦時中倉敷はアメリカの爆撃を受けていませんが、アメリカ軍が「大原美術館にある西洋の美術絵画を灰にするのは忍びない」と考えて爆撃目標から倉敷を外したそうです。
大原孫三郎と同時代の企業家として大きな働きをした人物としては渋沢栄一を欠かすことはできませんが、公益性や社会文化貢献活動にも尽力したとなると、「東の渋沢栄一、西の大原孫三郎」という表現ができるそうです。ただ、渋沢栄一の活動の理由が国家繁栄にあったのに対して、孫三郎の活動や思想は、個人・民力・平等などに目を向けたものであったことが、今の知名度の違いとなったのかも知れません。
大原孫三郎 善意と戦略の経営者 兼田麗子著 中公新書 2012年発行 より

